そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

マーキング~?/?/2000・k189

 犬は行く先々でオシッコをかけて、自分の活動領域を示すといいます。スプレーペンキでの落書も自分の存在を世間に認めてもらいたいという動物的習性のひとつと言えるかもしれません。

 それと似たものにゴミのポイ捨てがあります。ゴミを荷物にするのはいやだからとか、車の中に置いておきたくないという利己的な美的感覚からの行為が、いつのまにか無意識のうちに投げ捨てているというところに達したとき、ひょっとしたら動物の本能としての犬のオシッコに近いものが、そこに見受けられるのではないかというのが、私の考えです。

 落書はストリート芸術であり、ゴミのポイ捨ては物質文明と大量消費社会に対する批評であると誰かがそこに価値を見出すこともあるかもしれない、とは普通考えません。

 そこで私は夏休みの自由研究のテーマをひとつ思いつきました。ポイ捨ての代表選手の、空きカン拾いをやって、銘柄別に順位をつけるというものです。地域や商品の特性が出て、消費者の性向がよくうかがえることでしょう。その数字はメーカーにとって脅威となり、デポジット制導入を促すきっかけになるかもしれませんね。

Then and Now : 熊本日日新聞「読者のひろば」不採用。歴史の上では、落書は、時の権力に対するカウンターカルチャーとして評価される場合もある。それとこれがどう違うのか。景観に対する考え方や、反権力の意思表示をするために他に取るべき手段がないのか、ということがポイントになるのかもしれない。
 1958年(昭和33年)の東宝作品『駅前旅館』を7月25日に益城町で見た。上野駅前の当時の風俗が、興味深かったのだが、その路地を紙くずが結構舞っていて、きれいに片付いた街という発想は、経済的に安定して初めて出てくるものなのかなと思いました。