そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

農とこころの学び舎~合志義塾

放送大学熊本学習センターによる
どこでも生涯学習事業公開講演会
「合志義塾~農とこころの学び舎~」
共催 合志市合志市教育委員会

講演Ⅰ「合志義塾の教育と近代農民像」
講師:伊藤利明(熊本高等専門学校教授)

昨年、合志市民大学を受講して、
これまで知る機会がなかったことが惜しまれた。
そして満を持して、というか、
時代がいよいよ合志義塾に向かっている、
そういう感じがする。昨年の記事→リンク 

合志義塾を創設したとき、
工藤左一29歳、平田一十28歳だった。
時代が違うので年齢で単純にいまと比較できないが。
物質面ではなく、精神面の教育に力を入れたことが
大きな特長である。
明治41年までの塾生の進路では、
農業に次いで、教員が1割強となっている。
これは当時の住民の生活が貧しく、
授業料食費が無料、衣類小遣いの支給、
地元での就職、また兵役の免除などの理由から、
師範学校希望者が多かったこともある。
見方を変えれば、国策として教員志願者を優遇したことは、
富国強兵の一環かもしれないが、
それだけ教育に熱心だったことの証とも言えるだろう。

政治家、弁護士、医師などで
名を遺した偉人もいるが、義塾の本質は
しっかりした農民を育てることにあったとのこと。
著名な人をたくさん輩出していないと、
なかなか観光客誘致につながらないが、
それを私たちは誇りにしていいと思う。
その上で、全国に向けて合志義塾のことを
もっともっと知らしめていいのだ。

ユニークな教育方法として、
・師弟同行(教師・生徒に上下関係はない)
・学団編成(縦割りのクラス編成、自主自治の精神)
・男女共学
など特筆すべきものがある。
教師・生徒に上下関係がないなどというと、
悪平等と目くじらを立てる人がいるかもしれないが、
教育勅語の真髄を実践する教育に
それはあり得なかったと思われる。

創設者の一人、平田一十は、
大江義塾で3年間在学している。
その大江義塾を作ったのは、徳富蘇峰であり、
その蘇峰は、熊本洋学校でジェーンズに学んでいる。
明治時代にそれほど多くの選択肢はなかったと思われるが、
片田舎の一介の私塾とはいえ、
教育を受け継ぐ流れとしては、
実に理想的ではないだろうか。
ただこれも厳密に言えば、賛否両論あるかもしれない。

徳富蘇峰は、
東京と地方の文化的「不釣合ノ甚シキ」状況を問題視し、
これが国家の存立に関わると主張していた。(資料より)

平田一十・工藤左一両先生は、
「欧米文化の輸入、文明開化政策が
都市偏重であり、国家の基礎たるべき農村が
著しく犠牲となり、将来都市と農村の貧富の懸隔が
甚だしくなることが社会不安の原因であることを憂慮せられ、
農村の振興を強く主張せられていた」(石坂繁氏著作より)

もともと西合志村は土地がやせている上に
西南戦争とデフレ策に打撃を受けていた。
そこで教育勅語の奉載・実行による、
道徳と経済の調和を目的に
富と徳とを兼備する地方の中堅人物の養成のために
合志義塾を創設した。
農村の振興により、
国家の基礎を盤石にするためである。

昔の人は偉かった。というか、
昔はとにかく貧しかったし、そこから脱却すること、
少しでも暮らしを豊かにすること、
しかし徳のない豊かさは間違っているという認識が
最初からあったということである。

講演Ⅱ「合志義塾に学んで~私の心棒を育んでくれた
      義塾の教え~」
講師:岡村良昭
      (元熊本日日新聞情報文化センター常務取締役)

「心は錦だった」重みのある一言である。