そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

戦没者追悼式

毎年今頃行われる合志市戦没者追悼式。
今年は5月28日月曜日に開催された。

戦没者遺族のみなさんには
まことに申し訳ない気持になるけれども結果的に、
私の近しい親族に戦死した者はいない。
そんな中、一番不運だったのは、
父の兄弟の長兄であろう。
熊本中学から東京音楽学校に進んだのに、
学徒動員で南方に飛ばされてしまった。
不運にもマラリアにかかり、送り返されたので
生還することは出来たのだが、
ドラマでいうなら、脇役の可哀想な人生を送ることになった。
祖母の話を断片的に覚えているが、
マラリアの後遺症の発作のときは全身ががたがた震えるので、
布団をかぶせてその身体を抱きかかえているしかなかったという。

私の父は、祖父が郵便局長をしていたので、
当時、いまの菊池市、旧泗水町に住んでいて、
とにかく近所からは二人しか選ばれなかったという
時代的には幸運にも、予科練に入ることができた。
しかし時局運悪く、広島県呉の造船所で、
駆逐艦の修理作業をやってるか、
自分たちが乗ることになる人間魚雷を作っているときに、
終戦を迎えてしまったので、
私と妹弟にとっては類いまれなる武運で以て、
父は熊本に戻ってくることができた。

正確なことはついぞ聞きそびれてしまったが、
ともかく除隊するときに、
牛を一頭もらって、それを引いて帰途についたという話である。
それが、小倉辺りまで来たときに、
熊本では食べ物はいっぱいあるが、
衣類が不足していると誰かに吹き込まれ、
何枚かの軍用毛布とその牛を交換してしまったらしい。

私の息子が小学生のとき、
宿題で祖父の戦争体験を聞くというのがあった。
私の父は、実戦に参加したわけではないが、
なまじ予科練生という天国を見ただけに、
戦後、相当やさぐれたことは想像に難くない。
だから、戦争について語ることといえば、
あのときは、死ぬことに疑いを挟むことはなかった、
そういう時代だったということだけだった。

だから、そのジャックと豆の木のようなエピソードを
祖母から聞いていた私がそれを息子に話したっけな、
と久しぶりに思い出した。