そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

イッツ・ピクチャレスク

7月2日の熊日
楠本亜紀さん(写真批評家)が連載している
「写真 虚実のあわい」第8回の一部。

私たちは法外な風景を目にすると、
どんな災いを引き起こしたかどうかにかかわらず、
恐れを抱きつつも魅入られる。
それは、災厄に遭った風景や廃墟を
ピクチャレスク(絵画的に美しい)とみる、
18世紀後半から続く美学的風潮に連なっている。


「私たちは」と一般化してしまっていいのかどうか、
それを認めたくはない人も多いとは思うが、

私としては、やっぱりそういう流れもあって、
そう感じるのが普通なのかと妙に安心した。

怖いもの見たさとは少し違うかもしれないけれど、
それも一つの造形のように私は感じてしまう。

以前、営業の仕事で熊本市内を回っているとき、
時折見かける廃屋に惹かれて、
携帯でその風景を撮っていたことがある。
だがそれは、「災厄に遭った風景や廃墟」だからではない。
何年前のことかわからないが、
そこで確かに生活が行われていた、その痕跡が
そこかしこに残っていることの切なさに
つい足を止めてしまっていたのだ。

ちょうど子育ても佳境に入る頃だったせいかもしれない。
家族という、実は移ろいやすいものの形跡が
何とも残酷な形で目の前に残されていた。

建設業から、生命保険の募集を経て、
いまや地域での社会福祉のあり方を問う役目。
空き家を住宅ストックと考えるか、
ただの廃屋予備群と考えるのか。
呆然と立ち尽くしたり、
美学的感慨に耽っている場合ではなくなった。

「人生らしいね」
小泉今日子の言葉を噛みしめるとするか。