そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

通り雨

高校の同級生が急逝した。
今日、葬儀に参列、お経お念仏を聞きながら、
昔のことを思い出していた。

病院の副院長という重責だけでなく、
監察医や裁判での被告の精神鑑定などもやっていたそうだ。
弔辞を述べられた二人の医師は、
学生時代、また勤務先で長い付き合いがあったようで、
あんなに惜しまれて亡くなるとは、
まわりの人たちにとってはその喪失が大きいとはいえ、
同じ送るなら、そういう人生以上に素晴らしいことがあるだろうか。

思えば、私と彼の付き合いは、高校2年のとき1年間。
3年になるときに彼は転校したので、
同窓会で会うということもなかった。
青春時代の1年間の意味というか、影響の大きさは
誰しも認めるところだと思う。
いなくなってから、もう一度会って話しておけばよかったなど、
例によって、思っても取り戻せないことだ。

ときどき、昔のことを思い出して、
スローターハウス5』のビリー・ピルグリムのように
記憶を反芻することがある。
同じ時を過ごして良かった。とても良かった。
短くても、数えるほどであっても、それは宝物だ。

そんな宝物が、実は数えきれないほどあって、
何かの機会に、そのうちの幾つかが
記憶の中から、転がり出てくるから、それを私たちは磨くのだ。
原石とはもはや、形も輝きも変わっているから、
共有しているはずの友であっても、
そうと気づかないぐらいかもしれない。
そういうものだ。

残念なのは、私は折に触れこれからも彼を思い出すにしても、
もう彼の方は私のことを二度と思い出してはくれない、
それは唯一確かなことだ。

 いつのまにか まっくろ雲が
 頭の上を おおった
 

 あんなにやさしいあなたなのに
 どうしてこんな雨の中を去っていくの

 通り雨 通り雨
 雨がやんだら 早く お帰りよ

覚えているのは一部分だけの
秋田宏弥君が作った「通り雨」という曲の歌詞である。
高校の文化祭で歌ったよね。