昨年11月9日の熊日「現論」に宗教学者の山折哲雄さんが、
「安藤美姫選手の出産に思う」という文章を寄せていた。
結びはこうだ。
「安藤『騒動』が収束して気がついてみれば、
7年後の2020年には東京五輪が開催されることになった。
そのとき引退した後の安藤選手は
いったいどのような道を歩いているのだろうか。
願わくば、東京を遠く離れたどこかの大舞台で、
7歳になった娘さんとペアを組んだ安藤美姫さんが、
もう一つのフィギュアスケートの究極の姿を
われわれにみせてくれればいいな、と妄想しているのである」
スケートよりも自分のおなかの赤ちゃんを選んだ。
そのことの是非は、一流のスケーターだから余計
バッシングの対象にもなった。
父親の名を明かせないというのはおかしいだろうと言うのは簡単だ。
私もそう思わないではない。
でも、一人の女性がそれを選んだことを、
世間の常識とか、その社会的な影響力とかでどうこう言うのは、
やっぱりやめたほうがいいだろう、とぎりぎり考える。
それを愛の形と呼ぶことには、
その子が大きくなったときに、どう受け止めるかという課題もある。
結婚という形式だけが大事なわけではないとわかっていても。
もう去年の話題だけれど、
そのことに関する引っ掛かりは、
実は常に私たちが問い続けるべきことなのだ。
すぱっと切れる答えが出なくても、
人間という生物の社会と、個人や家族の問題として。
割り切れなくて余りが出る計算も
別に普通のことだろう。