昨年12月22日の熊日くらし面にあった
「雨の日も晴れの日も」に勝延寺前住職の吉津隆勝さんが
「『違い』を受け入れる『和』」という題で書いていた。
引用すると、
「人みな心あり、心おのおの執るところあり」
聖徳太子の憲法十七条・第十条の一節にそうある。
条文の主な部分を現代語訳すると次の通り。
「人それぞれ思いは異なり、自分がこれだと思う考えがある。
人が良い、善だと思っても自分は認めることができず、
自分が良い、善だと思っても人は認めようとしない。
私は必ずしも聖者ではなく、他人もまた必ずしも聖者ではない。
共に凡夫なのだ。
誰がどうして善悪の理を決められるだろう」
自民党の憲法改正草案(改正という語自体がおこがましい
という意見はこの際置いて)は、
こういった歴史に学んだほうがいいと思うが、
何しろ、戦後レジームしか頭にない人ばかりである。
謙虚になれば、
私の意見だって、自分で正しいと思っているだけかもしれない。
いや、間違いなく間違ってはいないと思うのだが、
そういう態度はよくない、お互いに認め合わなければいけない。
と言ったって、現実にはそんな譲り合っていても
前に進まないことは多い。
そういうときは、立ち止まって、前進は善かと
問うてみるべきである。
ただ、前進か後退かも主観によると言われそうだが。
聖徳太子の憲法十七条・第十条の一節にそうある。
条文の主な部分を現代語訳すると次の通り。
「人それぞれ思いは異なり、自分がこれだと思う考えがある。
人が良い、善だと思っても自分は認めることができず、
自分が良い、善だと思っても人は認めようとしない。
私は必ずしも聖者ではなく、他人もまた必ずしも聖者ではない。
共に凡夫なのだ。
誰がどうして善悪の理を決められるだろう」
自民党の憲法改正草案(改正という語自体がおこがましい
という意見はこの際置いて)は、
こういった歴史に学んだほうがいいと思うが、
何しろ、戦後レジームしか頭にない人ばかりである。
謙虚になれば、
私の意見だって、自分で正しいと思っているだけかもしれない。
いや、間違いなく間違ってはいないと思うのだが、
そういう態度はよくない、お互いに認め合わなければいけない。
と言ったって、現実にはそんな譲り合っていても
前に進まないことは多い。
そういうときは、立ち止まって、前進は善かと
問うてみるべきである。
ただ、前進か後退かも主観によると言われそうだが。