そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

ファンタジー集団的自衛権

社民党の広報紙「社会新報」5月7日号に
政治学者の浅井基文さんのインタビューがあった。

「最後に、現在の『集団的自衛権』の議論で欠けているのは、
ポツダム宣言という国際的な約束と、
日本がよって立つべき平和観という、
物事の是非を判断するモノサシです。
集団的自衛権の行使、日米安保・軍事同盟は『力による平和』であり、
憲法は『力によらない平和』です。
どちらを取るかは一人ひとりの世界観に関わる問題であり、
21世紀の国際社会に日本という国家をどのように関わらせるかという
主権者としての意思決定の問題です」と結ばれる。

投げやりのように見えないことはないが、
結局一人ひとりが、「力による平和」と「力によらない平和」について、
きちんと考えないことには、確固たる主権者としての意思にはならない
ということである。
「力によらない平和」にすべてを任せられるか、
という現実的な問題がある。
なにせ相手があることだから。

しかし、同盟国がいじめられたときに助けておかないと、
日本がいじめられたときに助けてもらえないという、
分かりやすいような、わかりにくい例えは、やはり良くないと思う。
戦争はしないが、それに備えることはアベノミクスであると
そうは言わないまでも、そう考えていることは明白だ。
誰がって、安倍首相がである。

今日の熊日朝刊に、
自民党野田聖子総務会長が、月刊誌「世界」のインタビューで
語ったことについての記事があった。
引用すると、
集団的自衛権の行使容認に向けて憲法改正ではなく、
解釈変更を目指す手法に関し
『違う政党の政権になった時にまた解釈を変えることが可能になる。
政策の安定性がなくなるのではないか』と指摘。
『人を殺す、殺されるかもしれないというリアリズムを語るべきだ』
と注文をつけた」とある。

政策の安定性はすでに疑われているので、
それほど問題だとは思わないが、
「人を殺す、殺されるかもしれないというリアリズムを語るべきだ」
という部分には、正直しびれました。
血を流すことは望まないというのはきれいごとであり、
血を流す可能性があると言わないのは卑怯である。
そこまで腹をくくって来られたら、・・・
もちろんそれも少し困りはするのだが、
主権者としての国民が現実的に考えるよすがとはなろう。