『戦争思想2015』河出書房新社刊
西谷修・戦争の現在を問うの章から引用。
「戦争をするとかしないとか、戦争ができる国とか、
そういう言い方がよくされますが、戦争を『する』ことができるのは、
つまり戦争の主体は、基本的に国家のような集団なんですね。
ただ、その集団を動かしていると思っている連中は
戦争をするのだと決め、机上で作戦とかを操作することもできるし、
頭でいろいろ空想することもできる。
けれども普通の人びとにとっては、
戦争はあるときに『起きて』しまって、
起きたときにはもう飲み込まれるのだということです。
そして動員されたり、爆撃されたりするわけです。
それが一つ、つまり、私たちは基本的に、
戦争に関しては主体にはなりえない」
「もう一つは、
戦争は個に対する集団の圧倒的勝利の時であるということです」
戦争というのは、国家対国家で成り立つとか、
国家の安全保障が、いまこの現在、どう位置づけられるのか、
国会では、そういう観点でこそ議論をしてもらいたいものだ。
それではわかりにくいか。
しかし、ご近所や友達関係のたとえ話は、
どんなにわかりやすくても、本質からどんどん遠ざかると思う。
西谷修・戦争の現在を問うの章から引用。
「戦争をするとかしないとか、戦争ができる国とか、
そういう言い方がよくされますが、戦争を『する』ことができるのは、
つまり戦争の主体は、基本的に国家のような集団なんですね。
ただ、その集団を動かしていると思っている連中は
戦争をするのだと決め、机上で作戦とかを操作することもできるし、
頭でいろいろ空想することもできる。
けれども普通の人びとにとっては、
戦争はあるときに『起きて』しまって、
起きたときにはもう飲み込まれるのだということです。
そして動員されたり、爆撃されたりするわけです。
それが一つ、つまり、私たちは基本的に、
戦争に関しては主体にはなりえない」
「もう一つは、
戦争は個に対する集団の圧倒的勝利の時であるということです」
戦争というのは、国家対国家で成り立つとか、
国家の安全保障が、いまこの現在、どう位置づけられるのか、
国会では、そういう観点でこそ議論をしてもらいたいものだ。
それではわかりにくいか。
しかし、ご近所や友達関係のたとえ話は、
どんなにわかりやすくても、本質からどんどん遠ざかると思う。