デジタル・アーカイブというか、
例えばデジタルで文書や資料などを残すときの利点は、
とにかく場所を取らない、検索が容易、コピーが簡単。
と、わりと下世話なところが思い浮かぶ。
しかし、これを数十年あるいは100年単位での保存と考えると、
デジタルにおけるデータの劣化は、ゼロイチの世界なのだ。
昨日、NHKラジオ第一の番組でもやっていたが、
あまり話題にしたくはないが、冷厳な事実である。
つい最近知ったことだが、フラッシュメモリーは、
4,5年で取り出せなくなることもあるとのこと。
ハードディスクも完璧ではないので、定期的にデータを移行する。
それが重要だけれど、メディア自体が進化というか、
新しいものに置き換わることは当然なので、その時点では
必ず移しておく必要に迫られる。
これが、初期のレコードであったり、LPレコードに変わったところで、
音盤の溝を引っ掻いて、その振動を増幅する仕組みは
それほど複雑ではないし、アナログなので、劣化はあっても消去はない。
話は飛ぶが、書物は燃えやすいが、
完全に燃やしてしまう前に、その一部分をなんとか救う手立てはある。
しかし、デジタル保存の救出は対応を誤れば、
全消失に1秒もかからない。
なんで、今日こういう話を書いているかというと、
ふと自分の過去記事にジャンプしてみたら、
貼り付けたリンク先が forbidden になっているものが多かったからだ。
本文自体は、ニフティが何とか保存していてくれるので、
今では恥ずかしいような見識もきちんと残されている。
原子力発電について、必要最小限の再稼働は必要だと、
そういう意見も書いていると思う。
歴史的な資料を残すということについて、
合志市の歴史郷土資料館の今後のあり方とともに、
過去と向き合うことが、果たしていかなる未来志向につながるのか、
という命題に直面しているのである。
個人的には面白くて堪らないことなのだが、
果たして、市民にその魅力や重要性、
はたまたなぜそれが欠かすことができないのかを
シンプルに直球でガツンと扇情的に伝えることができるか。
誰かに、ズバリと答えてもらえたら、どんなに楽なことか。
過去の一切には意味がない。
そう言い切ってくれてもいいのだが。