そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

運転免許の「免許」の意味~11/25/2002・k218

 人が道路を歩くのに免許はいらない。右側通行とか、赤信号で止まるというのは、自分の身を守るための手段である。

 しかし、車を運転する人が交通法規を遵守するというのは、それとはまったく違う。なぜなら、ルールを覚えて、確かにそれを守りますという約束のもとに、公安委員会から交付されるのが、運転免許だからだ。

 譲り合う気持だとか、思いやりのある運転というマナー、あるいは気くばりは、交通を円滑に進めるために確かに必要だが、それ以前にドライバーは、運転免許の意味を思い出さなければいけない。

 道路交通法は完璧ではないかもしれない。しかし、その精神は、事故で器物に損害を与えたり、けがをしたりさせたり、命を落としたり奪ったりすることがあってはならないという原則の上に成り立っていると思う。

 交通マナーというから、行儀のいい人、無作法な人ということになるが、法律に対する認識が欠けている人、ルールを忘れた人には、間違いを指摘しなくてはいけないだろう。

 取り締まりの強化は、確かに効果的だがそこには多大な費用がかかるし、そういう社会を望む人もいないだろう。運転免許の「免許」の意味をかみしめる良い機会が提供できないものだろうか。

Then and Now : 熊本日日新聞「読者のひろば」不採用。同様投書を何回か書いた。最近は、他人の運転について、「この野郎!」と感じることはあっても、それで意見しようとまではなかなか行かない。
 投書の限界は、以前からわかっていたことだし、もはや、言いたいことは言ってしまったような気がする。この「晴れた日には永遠が見える」を立ち上げた目的のひとつには、そのとき読んでいなかった人に読んでもらうことで、前に書いた文章でも何か少しは役に立てるかもしれないという期待もあった。さて、どうでしょう。