そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

セーラー服と水道町交差点

 今日午後6時過ぎの水道町。あの広い交差点の真ん中では事故処理中。頭の中で「セーラー服と機関銃」のテーマを鳴らしていた私は、横断歩道を渡ったローソン前で、薬師丸ひろ子に似たセーラー服の女子中学生とすれ違った。

 今日の熊日夕刊の「テレビの泉」というコラムで、ノンフィクション作家の高橋秀実氏が、長澤まさみ星泉には「薬師丸ひろ子のような組を支える母性や求心力がまったく感じられない」、「何やら赤ん坊のようである」と書いている。確かにうまいところを突いている。
 私は、もはやセーラー服の時代ではないのだ、というわかりきったことを発見した。今回のドラマ化では回を追うごとに、セーラー服の出番は無くなり、ポロシャツになってしまっていた。
 近田春夫が「考えるヒット」で、ドラマを見なくても歌いぶりから、女優の素質が伝わってくると書き、小林信彦氏が、華のあるスター女優として長澤まさみをべた褒めしてくれているのに、このドラマは初期の赤川次郎らしい残酷さばかりが忠実に描かれ、ちっともいいところがない。ああ、星泉がいなければ、任侠ものとしてはぐっと来る描き方と言えるかも。
 前にも書いたが、小泉今日子がこれまたちっとも生きてないしねえ、次回最終回は最初からの予定通りとはいえ、早く終わってくれてほっとするだろう。

 そこで、50歳になろうかという(なってるって)中年男は、振り返って少女を見た。夕まぐれの中、後姿の白いソックスだけが浮かび上がり、本当に薬師丸ひろ子に似ていたのかどうか確かめる術もなく、ビルの角に消える姿を見送った。