そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

ハイファイ・ステロタイプ>5/20/07・k330

情報社会の中で、情報の受け手である私たちは、
日々のニュースや解説記事を受け流す消費者に過ぎない。
そうしている責任の一端は送り手であるマスメディアにあると私は思う。
たとえば5月20日本紙社説では、中小企業再生について、
「政府は経済社会の展望を明確に示して、
地域の根深い不安をぬぐう責任がある」と結ばれる。
それは正論である。
だが、その意見が政府関係者に届かなければ、言いっぱなしで効果はない。
県関係国会議員がこの記事を目にして、
地方には政府に対してこういう意見があると示すことは期待出来るかもしれないが、
情報の送り手として本気で考えるのなら、記事の向こう側まで到達するような表現がほしい。
児童虐待防止法の改正を機に、これを生かして関係者が密接に連携、
虐待防止に取り組むことが望まれると、18日の社説にある。
その通りだ。情報の消費者である私たちでも
自分の子育て経験に立ち返ってみる。
虐待する親を育てた親もいる。
環境にも左右されるかもしれないが、それは他人事ではない。
報道には公平性や客観性側が求められると聞くが、
そのことで現実と感覚的にずれてしまうことがないか、
常に自問する姿勢が送り手には必要だろう。

Then and Now : 熊日の読者のひろば欄、不採用。
かなり分かりにくい。
新聞の論調のきれいごと主義というか、
前向きさがあるようで、まったく効果のないステロタイプ
表現の不毛さを糾弾したかったのだが、
ご覧の通り。
人のこと、言えないよなあ。