そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

遠い日は未来にだけあるのではない

5月6日の熊日。この日の朝刊には、
北海道電力原発3号機が発電を止め定期検査に入ったため
国内の商業用原発50個が全停止した記事が載っている。

それを受けた大型識者談話として、
『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』の著者
開沼博さんの話があった。

 「危険だからすぐ止めろ」と外部から批判する人がいるが、 
 「他人ごと」への圧倒的な無理解がある。
 代わりの産業がなく、かつては出稼ぎばかり。
 そこでコミュニティーを維持する機能を果たしたのが原発だ。

 取りあえず、仕事が欲しいというときに、
 再稼働しかないのが現実。

 遠い日にあるかどうか分からない「科学的なリスク」より
 「生活のリスク」こそが目の前にある。

 立地地域を「原発マネーにまみれた異質な他者」
 として切り捨て、無理解の中で追い詰めるのではなく、
 無意識的にせよ、多くの人々がその格差の固定に
 加担してきたことを理解し、まずその解決策を考えるべきだ。


切り張りしてしまったので、行間を埋める想像力を
読者には個人的に期待したい。
気の短い私は、言っても分からんモンに、
話しても分からんと、つい思いがちだが、
そりゃ、いかんバイと繰り返し自省し、また自制する。

野田首相は、結論だけはきっちりと話す人だが、
その説明にいつも逃げを用意しているように見える。
極端な話、「あなた、命をかけると言ったでしょ」と追及されたら、
「いえ、まだまだやるべきことがあるので、
政治生命しかかけられません」とか言うことだろう。
「政治生命を賭したのなら、もう引退か」と詰め寄れば、
「いえ、一国会議員として出直します」とか言いそうだもんな。
別にそれが悪いと言ってるのではありません。
他に語るべきことがあるだろう、と。

というようなことが書けたのも、
これ「内田樹の研究室」
~「国民生活」という語の意味について→リンク
を読んだからだと思います。