12月7日の熊日に、
日本文学研究家のマイケル・エメリックさんの文章があった。
タイトルは「誤訳に満ちた世界像」である。
欧米の新聞が自民党に言及するとき、
必ず「中道右派」の政党であると説明すると同時に、
民主党を「中道左派」と位置づけ、
きれいな対をなすものと見ていることに違和感を覚えるというのだ。
「右と左」「右派と左派」は、本質的に相対的な概念でしかない。
言い換えれば、右や左と言っても、
あくまでも一つの社会、ある政界のなかでしか意味を持たない。
米国での民主党と共和党の対立においては、
「実質的な保守と革新の逆転が起こりつつある現在においても、
右と左の意味だけは依然として変わっていない」という。
その米国式の常識で、日本の政党の立ち位置もイメージされる。
アベノミクスは公共投資による経済対策を打ち出しているが、
これは大きな政府の政策であるにもかかわらず、
右派の安倍晋三首相が、なぜこんな左派的経済政策を行うのか。
米国社会を通した「右と左」で理解することは、一種の誤訳でしかない。
エメリックさんはそう断言する。
「どの国でもこのように世界は独自のフィルターを通して語られる」
「普段あまり気に止めることがことがなくとも、
新聞やテレビの国際ニュースのほとんどは、
実は翻訳で成り立っている。
私たちが見ている世界は、誤訳に満ちているのだ」
誤訳は、それぞれの国での常識という物差しで理解するところから
生まれるものでもある。
しかしまた、あるときは、うっかり口が滑ったことを、
それは本意が翻訳されていないと言い逃れることもできる。
しかし、もともとどうイメージされていようと、
語っている内容の本質を見極めることは不可能ではないだろう。
誤訳に満ちていることを分かった上で、
やはり、なんらかの判断を
適確に下さなければならないことだけは確かである。
もちろんそれは、同じ日本語を使う国民同士においても。