そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

自己責任と自助

前にも書いたと思うが、
以前コンクリート工場に勤めていたとき、
そこは軽微なものがほとんどとはいえ、
労災事故が日常的な現場だった。
それで、総務部門にいた私は、
工員さんがケガをするたび、工場の誰もが使う
「自己責任」という言葉を自然に受け入れていた。
つまり本人の不注意に事故の原因を求めるものだ。
労基署の立ち入りがあったときでさえ、
それは本人が気をつけないからだろうと
内心では思っていたのだが、
監督署の指導は実に厳しく、ほとんど外的要因、
つまり工場施設の安全対策と安全管理と防災意識を
徹底させることが求められた。
よくしたもので、そのことで私の考え方も変わった。
労働現場に「自己責任」による事故はない。
絶対に防ぐことができるという信念を監督官が
持っているかどうかは分からないが、建前では
事故ゼロのための方策を取れと言う。
極端に言えば、想定外の事故などという概念は
許容してはいけないということだ。
それに近いものがあったとは思うが、
福島第一原発では壊滅的な結果を招いてしまった。
規模が違うとはいえ、基本的な認識は同じなはずである。
前置きが長くなったが、熊日2018年4月の記事。
能力至上社会を生きるという連載があって、
「『それは自己責任だ』04(平成16)年、イラク
武装集団の人質となった若者3人に向けられた強烈な
バッシング。その後『自己責任』は用いられる場面を
変え、日本社会の中に浸透した。ワーキングプア
貧困高齢者ら格差社会の下層に落ち込んだ人たちは、
事情も顧みられることなく『努力してこなかったのが
悪い』と突き放される。
社会活動家で法政大教授の湯浅誠(48)は
『自己責任論は「努力したか、しないか」を問うが、
努力しても報われなかった人への想像力、そして
どうすれば努力できる意欲が持てるのかという
議論が欠けている』と指摘する」
そして「自己責任」と「自助」は地続きなのだと思う。
それを深く考えないで(考えているとはとても思えない)
自助・共助・公助、そしてきずななどと
のたまう菅総理には
初っ端から言葉の貧困を見るのである。