そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

スティング

伯父(父の実兄)が亡くなり、
その葬儀で昨日大阪に行った。

伯父は大正15年生まれ、85歳。
父は海軍の予科練で、
呉の造船所で終戦を迎えたと言っていたが、
伯父は同じ予科練でも航空隊だった。
どこで詔勅を聞いたのだろう。

祖母の、自分の家族にまつわる話は
山ほども聞いた。
しかし、それらが真実であったかどうか、
それは川の水が海に流れ込んで一つになってしまえば、
どこまでが本当のことで、どこからが伝説になったのか
どうでもいいことであるように、
当人たちが亡くなってしまったら、
市井の人の昭和の話は、
多少の誇張があったとしても、
家族の歴史として、面白いだけでいい。

とはいうものの、
私の記憶の中でずいぶん曖昧になってしまったことについては
個人的に責任を感じる。
そのときどきに、聞いたままでいいから記録しておくべきだったと。

上田の祖父が亡くなったとき、
私は小学5年生だった。
讀賣新聞の記者だった伯父に連れられて、
当時、多分花岡山の中腹だったと思うが、
出来たばかりの熊本支局を訪れた。
遺影にするために
スナップ写真を引き延ばしてもらうためだったと思う。

私が結婚したのは昭和61年だったけれど、
その頃、伯父はよみうりテレビで、
夕方のローカル番組のキャスターをやっていて、
披露宴を欠席した。
のちに熊本県民テレビのテレビタ特派員になったとき、
その総会で当時の社長にそのことを話したら、
ひとこと「古い話ですな」と言われた。

さすがにテレビは常に新しいものを追い求めている。
自分の先輩にあたる人の話なのに、
面識はなかったにせよ、
もう少し物の言い方はあるだろうに。
いま、会長か何かになっている人物だが、
世渡り上手で熊本まで流されてきたのだろう。

昨日豊中市の斎場で荼毘に付された伯父の
焼かれた骨のきちんと形が残っていたのには、
家族親戚ともども驚嘆の念を禁じ得ない。
学生のとき、器械体操をやっていたせいかもしれない。

従兄弟の一人が、
あの毒舌のあごの骨はしっかり納めんとなと言った。
のど仏もきれいなものだった。
私の斜に構えた態度と物言いは、
往年のブンヤ(新聞記者)魂に
多大な影響を受けている。
たまにしか会えないほど、その傾向は強くなるものだ。

映画『スティング』のポール・ニューマンが、
カードを切りながら、目くばせをするカットがある。
伯父がトランプを手にしたときの表情そのままだったので、
「ああ、おじさん、スティングだったんだね」
と思わず片頬で笑ってしまったことがあった。

戦争で死ねなかったので、
私の父も伯父も、その家族を残すことができました。
父たちには申し訳なさもあったかもしれないけれど、
それが、私たち家族にとっては
ある一つの日本の幸福です。