本紙の「くまもと美麗世代」に、
国産紅茶のルーツ熊本からという特集があり、
山鹿市の中川正平の人物伝が載っていた。しかし同時に、
紅茶に関して熊本にはもう一人忘れてはならない人物がいる。
それは合志市出身の可徳乾三(かとくけんぞう)である。
明治31年設立の肥後製茶合資会社の項に中川と共に名前があったが、
乾三は山鹿茶業講習所、人吉の勧業寮製茶伝習所で技術を習得後、
腕を磨きながら、明治12年には「不知火社」を創立、実業家となった。
国産紅茶のルーツ熊本からという特集があり、
山鹿市の中川正平の人物伝が載っていた。しかし同時に、
紅茶に関して熊本にはもう一人忘れてはならない人物がいる。
それは合志市出身の可徳乾三(かとくけんぞう)である。
明治31年設立の肥後製茶合資会社の項に中川と共に名前があったが、
乾三は山鹿茶業講習所、人吉の勧業寮製茶伝習所で技術を習得後、
腕を磨きながら、明治12年には「不知火社」を創立、実業家となった。
その後も、各地で後進の指導に当たりながら、
中国の茶業を調査研究、自
中国の茶業を調査研究、自
ら考案した「袋踏法」という製造法は、
全国の紅茶製造業者に採用されたと伝えられている。
またシベリアやモンゴルにまで販路を開拓、セイロン茶に対抗、
市場拡大に尽力したようだ。
そのスケールの大きさは、まさにグローバルな偉人である。
順調な発展は、日露戦争により道半ばで挫折したが、
台湾で技師を務め、亡くなるまで紅茶等の製造販売に従事した。
全国の紅茶製造業者に採用されたと伝えられている。
またシベリアやモンゴルにまで販路を開拓、セイロン茶に対抗、
市場拡大に尽力したようだ。
そのスケールの大きさは、まさにグローバルな偉人である。
順調な発展は、日露戦争により道半ばで挫折したが、
台湾で技師を務め、亡くなるまで紅茶等の製造販売に従事した。
時代に翻弄されながらも、
世界を相手に国内の殖産と輸出に力を注いだ人物に学ぶ意義は
今も大きいと思う。
Then and Now : 平成26年5月16日。熊日読者のひろばに応募するも
不採用。ほとんどが孫引きの記述なので致し方ない。
可徳乾三については以前も書いているので、不採用の記録とする。