そういう幼時の思い出と多少関係があるかもしれないが、長男が1年生になって、しばらく交換日記をつけたことがある。身体があまり丈夫でなかった私と違って、息子は外遊びが好きでしようがないタイプなので、文章に綴ることが面倒になり(夜は疲れて早く寝てしまう)、私の仕事が忙しかったこともあって、これは自然消滅してしまった。
彼が私と同じように物を書くのが苦痛でなくなるかどうか。あの日記のせいで嫌いになったかも。親の思いは熱すぎても伝導率まで変えられるものではない。
そこで、PTA役員の中でも最も敬遠されると言われる広報委員に自ら進んでなった話。
祖母が口ぐせのように言っていた言葉がある。
「義を見てせざるは勇なきなり」
役員決めのとき、いつまでたっても決まりそうもなかったから手をあげた。大学生のときミニコミ紙を作っていたから、そういうふうにできれば楽しいかも。
結局、2年間広報委員を務め、2年目は委員長になった。新聞社主催のPTA新聞コンクルールで入賞するという目標を掲げたことと、どうしても組んでみたい特集が何本かあったからだ。今思い返しても、ひとりで突っ走った部分も多く、配慮が足りず編集し直し、刷り直した号もあった。あの情熱は、ただの「目立ちたがり屋」に過ぎなかったのかもしれないと思う。
ともかく「教科書を読もう」という特集をやれたことはよかった。委員それぞれで学年と科目を分けて、いくつかのアプローチをした。でも実を言うと、自分では教科書をちゃんとは読まなかった。方針を決めたときには、もう次のことを考え始めていたからだ。
結局実現しなかった「きみの友達」という企画は、学校に通っていた頃の友人のことを思い返して、自分の息子らにとって「友だち」ってどんな感じなんだろう、どこが違うんだろう、変わらないことって何だろうと考えたことがきっかけだった。 【③に続く】