そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

私たちの「未来」への志向、嗜好、思考そして試行

5月27日 日曜日

熊本学園大学にて、
NPO法人くまもと地域自治体研究所主催の講演会、
「『大阪維新改革』がなげかけるもの」に参加。
講師は、木村雅英さん(大阪自治体問題研究所事務局長)。

自治労系団体の総会での記念講演会であるということ、
講師もそういう立場にある方ではあったが、
それほどバイアスがかかった話ではなかった。
大阪市民として、橋下徹氏が現われた背景、
また日常で肌身で感じる印象と分析など、
日頃マスコミを通じてしか伝わらない姿の
多面的リアルをわかりやすく説いてくれたと思う。

橋下徹は大阪の改革を全国に広げたいと思っているらしい。
そこに手法や思想的な危うさがあることはよくわかる。
しかし、出来不出来は別にして、
停滞する国政を改革するには、自分しかいないと
本気で信じているに違いない。
憂国の士がいますぐには必要とされていなくても、
それが必要とされる状況が着々と準備されつつある。
怖い、とか危ないとかいう次元ではない。
すでにすぐ近くまで彼らはやって来ている。
国民の心に忍び寄っているのである。

ただ私はそれを一刀両断に
切り捨てることはできないような気もする。
人類の歴史がこんなところまで来ちゃってるんだから、
思いも寄らぬ(つまり想定外の)展開が招来されても
我われは受け入れるしかないのではないか。

今日の熊日夕刊のコラムでも取り上げられていたが、
高橋源一郎が『「あの日」からぼくが考えている
「正しさ」について』河出書房新社刊の中で、
東浩紀の『一般意思2・0』について触れている。

 「ぼくたちは、民主主義の理想を『熟議』に、
 公共的なコミュニケーションに置く。
 けれど、著者は、熟議への信奉こそが、
 ことばによるコミュニケーションを至上のものとする考えこそが、
 人々を政治から遠ざけたのだとする」

なんてことを書かれると、そしてそれを目の当たりにするとき、
私はわなわなと(比喩的にですが)震えるしかない。

そして私は今日、孫たちをあやしながら、
それでも前向きにやるぜ、爺ちゃんは。と、
100%勇気をもらったのである。