昨日の熊日の読者のひろばに、こういう投稿が載っていた。
菊池市の82歳の方のものである。
「健康第一」は誰もが望むことであるが、なかなかそうはいかない。
「大切なことは、健康という第一の矢が折れても、
二の矢、三の矢を放ちながら生き抜くことである」
人間を支えるものは、肉体的な健康だけではなく、
いつかは壊れる肉体的な健康のみに頼ることなく、
人生での「第一」を求めて精進することが必要である、と。
「健康はそのための手段であり、
目的化されるべきものではない」
自治体においては財政の健全化が求められる。
これは病気に対立する概念ではないので、
数字的に健康の度合いが計りやすい。
しかしそれと同時に、住民の健康が財政に直結するのが、
国民健康保険や介護保険である。
いわく、住民が健康であれば、自治体の財政健全化に寄与すると。
「健康、健康」と声高に言うことは、
現に、そう望まないのに病気にかかった人に、
かなりつらい思いを強いるのではないかというのが
議員になる前の私の思いであった。
しかし、市の財政の内情を見るに、
いわゆる民生費扶助費の増加はとどまることを知らない。
単純に言えば、重病で病院にかかる前に予防できるものなら、
健康保険や介護保険の負担が少なくて済むというものだ。
だが、投稿した松岡光さんが書くように、
「健康はそのための手段であり、
目的化されるべきものではない」
健康は長生きにつながるが、同じ長生きするのなら、
それぞれに人生の「第一」を求めるべきではないのか。
昨日の朝、NHK総合で「きわめびと」という番組を見た。
106歳になる女性声楽家が出演して、自分の人生を語った。
山田耕筰さんに直接学んだ歌をうたう心、思いを込める発声。
自分で歌いながら、それを後に続く生徒たちに伝えてきた。
さすがに今ではもう歌う体力はない。
しかし、私たちには歌声のように、その生き方が伝わる。
そのあと、
「天野祐吉さん・時代に野次を飛ばし続けて」というのまで見てしまった。
え、敬老の日かい、と内心ちゃちを入れながら。
それぞれの人生の「第一」が集まって文化になる、
などと、分かったようなことを言いたいのではない。
なんとなく、生きることの意味、
健康第一に終わらない、人生のモデルを見たような
気がしたということである。