そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

議員のなり手が少ないことについて

今年の夏は、天候には恵まれなかったものの、
地方議員の醜聞には事欠かなかった。
私も自分が議員職になければ、それなりに批判しただろうが、
合志市議会議員に選ばれて、早や5年目である。
それなりに職務を果たしてきたが、
もっと別のやり方や、なすべきことがあったとは思う。
常に反省しながら、また日常にも流されながら送る毎日である。

今期(前回選挙)の合志市議会が無投票で選ばれたこともあり、
なぜ、議員のなり手が少ないかについて、折に触れ考える。
それぞれの自治体なりの事情はあるだろう。
しかし、一般的に社会が成熟したことは大きな要因だと思う。
成熟したと言えば、聞こえはいいが、つまりは
成長しなくなったということもできる。
もともと民主主義を自分たちのものにしていなかったとも。

議員は誰の代表かと問われれば、
それは住民の代表なのだけれど、
その住民の範囲はその自治体全体か、自分の居住区が中心か
ということも、また問われる。
過去には、地域の代表として選ばれることが当たり前だったが、
人口の移動が大きい、わかりやすく言えば都市化された自治体では、
人口密度と投票率が反比例している場合が多いという印象がある。
議員を通じなくても、直接意見を上げやすくなったという、
地方自治の仕組みの変化もある。
議員の口利きが有効だった世界がまともだったかというと、
それはそれで問題があったとは思うが、
そこにこそ、議員の存在意義が薄れてきた一因がある。

しかし、やはり財政状況が国を挙げて悪化したことは大きい。
切り詰めなければならない予算を前にして、
誰が自分から、感謝されない役回りを引き受けるだろう。
かなり犠牲的精神がなければ、議員になろうなんて考えないと思う。
選挙があるから、それが政治家としての自覚につながるとは言えるが、
人生設計的には不安定である。
理想に燃えていればいるほど、市町村から、都道府県、
その上の国会を目指すものだと思うが、
逆に言えば、そうでもしなければ、いわゆる昇給など望めないのだから。
仮に選挙に強くても現職に留まって、利益につながることは少ない。
稼ぐことを目的にされても困るので、
スピリットはボランティアに徹することができる人が望ましいだろう。
そういう人がいないわけではなくても、
なり手が少ないという大きな要素であることは間違いない。

核家族化が遠因かもしれないと考えると、
わが国の戦後の経済成長の行きつく先ということである。
議員は何をやっているかわからないと言われることが多い。
一理あるが、説明しようとして聞く耳を多くの住民は持っていない。
よほど大問題を抱えていれば別だが、
人任せにしていられるほど、そのまちは住みよいということでもある。

私は補欠選挙に担ぎ上げてもらったことを大いに感謝している。
以前、議員になることを考えないでもなかったが、
どうしても現実感に乏しくて、わざわざ自分がやるまでもないと思っていた。
住みよいまちを作りたいと思うことと、
議員になることはいまや直接的には結びつかない。
つまりそういうことである。
誰かを担ぎ上げようと一肌脱ぐ人が少なくなっているのだろうか。

以上、議員が何をなすべきかという問題とは関係なく、
議員のなり手が少ないことについて、
思いつくまま書いてみた。
この議員とは、主として市町村議会議員のことである。
もちろん、ある程度人口の多い都市ならば、
そういうことはないのかもしれないが。