そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

忘却のこちら側

先週の土曜日、
豪雨の中、レターバス右回りに乗って、
再春荘病院前で降りたのはいいけれど、
もちろん外は土砂降り(「チューチューガタゴト」by細野晴臣
恵楓園までずぶ濡れ。

正門を入ると、
父の背中におぶられて病院に連れて行ってもらったことを
思い出していた。
あれは、いまは菊池養生園になっているが
昔の菊池病院だっただろうか。
再春荘だったかもしれない。
幼いときは体が弱かったから。

小学4年生の秋、
母方の祖父が交通事故で亡くなった。
誰が名付けたか、交通戦争と呼ばれた時代。
祖父は太平洋戦争で、左太ももの内側に
砲弾の破片を被弾して、傷痍軍人となった。
生きて帰れたけれど、
まさか交通戦争の犠牲になるとは
思わなかっただろう。

当時は、夕方のニュース番組の最後に、
全国の交通事故件数とその死者の数が、
まるで天気予報みたいに流されていた。
私は三人きょうだいだったけれど、
交通事故死者がゼロのときは、
妹弟三人で、良かったねって心底喜んだものだ。
もうみんな忘れていると思うけれど、
昭和40年代は、そういう時代だったんだよ。

昭和45年には、16,765人が交通事故で亡くなっている。
1日45.9人。


5月16日の熊日夕刊「雑誌コンシェルジュ」は、
文芸誌「文藝」の高木れい子編集長。
インタビューで触れられるのは東日本大震災のことだが、

「言葉には人に力を与えるという側面もあるけれど、
忘却と戦うという力も大きい」

「絶対に忘れてはいけないことが風化しそうになったら、
長期的なスパンで言葉が戦わなければいけないと思う」

忘れてはいけないことは、
世の中に一つや二つではない。



交通戦争もので忘れられないのは、
雑誌「ボーイズライフ」に連載されていた公募ページ
「1000字コント」の入賞作か佳作だったか。
ある未来のどこかの世界での話。
子どもがおとなになるために
どうしてもくぐらなければならない難関があった。
それはクルマがノンストップで何十、何百台も往来する
目の前のとてつもなく広い車道を
無事に向こうまで渡りきるという儀式である。
一応途中には安全地帯という島が用意されてはいるが、
ずっとそこにいるわけにはいかない・・・

この理不尽な不条理な設定。なんか見覚えが・・・
そう後年話題を呼ぶことになる『バトル・ロワイアル
と基本的にはおんなじ。
そういう話は誰でも思いつくんだろうね。