そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

死について

死ぬのが怖いのは、
死ぬまでに目いっぱい痛くて苦しい思いを
しなくちゃいけないかもしれないからだろうか。
もちろん、いまこうして考えている自分が
この世からいなくなってしまうのだから、
自分が自分であることを意識できなくなる、
つまりアイデンティティの問題ということなのかね。

前夜眠りについて翌朝、
すっきりかどうかは別にして、誰でも生きていれば目覚める。
その間の夢を見ているかいないかの状態。
それがいわゆる死の時間間隔だと私は思う。
長いのか短いのか、
数値の上での時間の長さが、
熟睡度とまったく同じではないように、
また目覚めたら、まだ生きていたということだけが言える。

いつもいつもそんなことを考えていたら眠れなくなるので、
快い疲労感とと共に眠りにつければ、それが健康的だろう。

死を考えることは生について考えることでもある。
私の祖父が戦争で生き残ったことを
幼いころから、聞かされてきたことを思い出す。
砲弾の破片を受け(と聞いている)、
九死に一生を得たばかりか、
戦犯で処刑されることもなかったと。

だから、戦後は拾った命だから、
人のために使うと言っていたそうだけれど、
地元区長から、村議、議長、そして村長。
在任中に交通事故で亡くなることで、
その悲惨さをまた人々に知らしめたという
実に無駄のない生き方であったと言えよう。

私は幼いとき、大病を患い二の丸の病院に入院していた。
その私に輸血をするために通ってくれたが祖父だった。
その諸々のことを恩義に感じ、
自分も人のためになる大人になろうと思っていたのに、
こんな、ある意味遠回りばかりした挙句、
いまのところ大した人間になれていない。
しかしそれもまた、祖父が突然亡くなったことで、
小学4年生にして人の世の無常に気づいたせいである。

翌年、父方の、もう一人の祖父も病死したので、
まったく、死はいつもそこにあることを思い知ったわけだ。
というか、そのときそう自覚していたわけではなかったので、
それは後付けに過ぎないかもしれない。

その頃、すでに私は歌謡曲に魅せられていた。、
そしてグループサウンズビートルズの次に私を吹っ飛ばしたのが、
「帰ってきたヨッパライ」だった。
深夜放送とトランジスタラジオは、
日本の高度成長とともに、必然的にそこに出現した。
8マンや鉄腕アトムが、原子力の明るい未来を
私たちに約束してくれる同時に
たとえサイボーグになろうとロボットだろうと
人としての根源的な苦しみからは逃れられないことも、
そこには描かれていたんだな。