そうムーチョだから

イカしたタイトルを思いつくまで。

「名づけて、霜の通り道」>1/13/2006・k304

 町内の会社に10年ほど勤めたころ、縁あって、熊本市内から泉ヶ丘に引越してきて13年。合志町との付き合いも四半世紀。だが、そのまた20年以上前から、実はこの町、私の生活圏にあった。

 母方の祖父の家が西合志町の黒石にあったので、休みにはときどき遊びに行っていたのだが、当時の電鉄辻久保駅まで菊池電車に乗り、そこから産交バスの植木線で、生家のある大津町まで帰ったものだ。夕暮れどきに通過する合志町の風景は、広がる畑とその向こうの山に沈む夕日のイメージで、印象派クロード・モネの絵のように脳裏に残っている。

 竹迫の変則四叉路を左折して、山隈酒屋の角を右折すると道中も半ば。幼いとき再春荘病院に入院していた私。西合志町の黒松にあったという合志義塾を出た二人の祖父と父。戦時中、祖父が泗水の郵便局長だったので、父が後川辺のあたりまで、電報配達を手伝っていたこと、そして戦後のどさくさに竹迫で手品師たちを呼んで興行をしたことがあったと言っていたことなど。バスに揺られながら道往くと、ときおりバス停で、乗客が二人降り、一人乗りするように、人生は続くことを思う。そして誰もが多かれ少なかれ、町の歴史と関わっていることを。

 このたび、西合志町と合併して新しい市になるといっても、私の中ではまったく違和感がない。合志町というひとつの独立した町が無くなることはちょっと寂しいが、行政区が広がるだけと考えることも出来る。

 生まれて初めて書く年賀状に「こうし市」と書く子どもたちが大人になるころには、合志市としての「らしさ」が生まれているはずだ。しかし新しい個性を生み出すのは、やっぱり今、両町に暮らしている私たち一人ひとりの日ごろの積み重ねなのではないか。肩肘張らず、「ザ・グレート・カントリー(華麗なる田舎)」を目指すというのはどうだろう。私は、町外れで明日の天気を読むように、この町の将来を見据えていようと思う。

Then and Now:平成18年2月広報こうし最終号に掲載。町の広報モニターを4年間務めました。モニターをやった感想とか、合併に向けての思いを書けと依頼されて書いたものの、ちょっとおセンチですねえ。
母に喜んでもらえればとの思い、あまりに個人的すぎて、どうかと思ったのだけど、ほぼ原文のまま、世に出ました。いよいよ、市議にでも出るつもりか、と噂されてるかもしれない。

「広報こうし」は、町のホームページで、読むことが出来ます。
ただ、2月号の記事は、2月3日現在未収録です。
http://www.town.koshi.kumamoto.jp/